易って誰でもできるの?
陰陽師 安部清明
易占いの始まり
亀卜
五行説
易経原文
陰陽五行説
五行表
陰陽説 
陰陽道陰
64卦一覧図(別ページ)



☆易って誰でもできるの?

そうじゃのう。易は一人の作者によってつくられたものではなく、長〜い、長〜い時代を経て大勢の人の智恵の宝庫のようなものじゃと前にも説明したことをご記憶かな?易の基本単位である8卦が出き、8卦と8卦とを組み合わせて64卦というものをつくりだしたのじゃよ。

占的といって占おうとする問題をしぼり、まずは64卦のどの卦に相当するかを決定し、その1卦から深く掘り下げて占断していくといった具合じゃ。

お前さんも一度は見たことがあるのではないかな?易者の前に竹筒の中に立てられている細長い棒を。あれは筮竹というのじゃよ。

易占いをする者にとって必要不可欠な能力は念力じゃな。易占いはその力を発揮し易いように作られた占いなのじゃよ。世の中で「あの占い師」は当る、当らないと言われる所以は、解釈のセンスももちろんあるが、念力の力は無視できんだろうなあ。人によって、この念力の力に差異があることはもうご存知のことであろう。易占には、易経の智恵を元に、念力が占い師に備わっていてはじめて的中するといったものじゃよ。お前さんの念力が強いのならば、その力が世の為人の為に利用できるかもしれんぞ。易経の膨大な量の本を読んで勉強する必要はあるがのう。





☆易占いのはじまり

古代中国に起こったもので、日本には5世紀のはじめ頃に伝えられたといわれている。今日まで、約3000年の伝統がある3000年とは長いね。

284年に百済より阿直岐、285年に博士王仁、513年五経博士段楊じ、516年高安貞、554年に五経博士王柳貴、易博士王道良が来朝。次第に日本に普及していったといわれておる。日#☆易占いのはじまり本書記にとると、欽明天皇の14年(西暦553年)6月に朝廷は朝鮮の百済に使者を派遣し、医、易、暦の学問に通じているそれぞれの博士に来朝してくれるように要請した。大和朝廷の依頼により、翌年、易博士王道良、翌翌年、暦博士王保孫が来朝。これが易占いと中国暦が日本に渡来した最初といわれておる。

平安朝(西暦794〜1192)陰陽嗜の賀茂と安倍の両家が日本の天文、暦、易占星術の分野で大きな足跡を残しているのでこの両家については安倍清明のところでふれるとしよう。

江戸時代以後の有名な人物をあげると、藤原せいか、林羅山、伊藤東涯、佐藤一斉、東條一堂、海保漁村、根本通明などがおる。平沢随貞、新井白蛾、真勢中州、高島呑象は占法が優れた人と言われておる。




☆陰陽説

この世を陰と陽にわけた説で易の原理じゃ。わかりやすく言うと、イタリア語やフランス語など全ての名詞が、男性名詞、女性名詞のように分類されているじゃろう。ああいったようにこの世の森羅万象を陰と陽に分け、異なった性質を持っているものとしておのおのの生成変化のありようを考える思想のことじゃ。多くの学者は陰陽説のほうが五行説より先に起こったものであると唱えておる。

万物を陰陽に分けた一例を紹介してみようかな。 

陽 男 天 日 昼 表 連続  進 強 動 開 。。。

陰 女 地 月 夜 裏 不連続 退 弱 静 閉 。。。





☆五行説

この世の森羅万象を五つのグループ、木火土金水の五つのグループに分類(例 五行表)し、その生成変化を解明しようとする理論とも思想ともいえるものじゃ。古代中国の殷王朝(前12世紀に滅んだ古代中国の王朝)の時代にすでに出来ていたものと思われる。

起源には次の2説が有力となっておる。

1 殷王朝の時代に用いられていた10進法の計算法をあらわす10干と大きな関係がある。

2 西洋占星術の影響を受けて作られた。





☆陰陽五行説

易や占星術の大きな原理となっているものじゃ。日本には6世紀ごろ中国から大陸文化を輸入し親しんでいったものである。7世紀になり大和王朝の時代は先端を行く最も進歩した学問の一つであった。古代中国では未来を予見する占いは、我々には想像が出来ない程重要であったようじゃ。それは最近の考古学的研究によって明らかになってきているのじゃよ。陰陽五行説は中国の占いの原理となっているばかりでなく、思想、哲学、政治、権力、や日常生活の慣習、行事にいたるまで大変大きな影響を与えておって、今日にもそこされているものじゃ。

お酉様、土用の丑など、聞きなれた言葉もこの陰陽五行説の伝統がのこされていることから考えても、その影響力が大きかったかを想像できるじゃろう。中国の歴史を理解するにも陰陽五行説の知識なしには不可能なことであろう。儒教の教典である五経はいずれも陰陽五行説を永遠不変の絶対的真理である法則とみなしておるからのう。

陰陽五行説を形成している陰陽説と、殷代にその原形がつくられたといわれる五行説は、密接な関係を保ちながら発達し、漢王朝の時代(西暦前202〜後220年)に融合して一体となり陰陽五行説を形成するに至ったのじゃ。




☆陰陽師 安部清明

今や彼の名前を知らない人はいないぐらい有名な陰陽師となっている人物である。

平安朝(西暦794〜1192)陰陽嗜の賀茂と安倍の両家が日本の天文、暦、易占星術の分野で大きな足跡を残している。 

奈良時代に大陸文化導入のために唐に渡り、大衍歴を日本にもたらした吉備真備の6世の子孫である賀茂忠行という人物が、天文、暦法、易占術に長けておったのじゃ。その子供である保憲は父より優れているともっぱらの評判だった。それ故、朝廷は保憲を陰陽頭に任命し、天文博士とし、代々の世襲を定めておったそうじゃ。

その弟子が今、最も注目を浴びている安部清明(左太臣倉橋麿9世の孫)というわけじゃ。優れた人格を持ちこの道に卓越していたので、保憲は天文を安部清明に、歴道を自分の子供の光栄に伝えたのじゃ。

安部清明は古今を通じ、日本の易占術界の第一人者であり、超人的な数々の予言により伝説となっている人物というわけじゃよ。





☆亀卜(きぼく)

古代中国の王朝である殷代後期(西暦前1400〜1300年)の都であった阿南省安陽付近の殷虚から、数十万片にのぼる亀の甲や獣骨の破片が発見されたのじゃ。これが甲骨文。甲骨文とは、その当時中国を支配し統治していた殷王朝の皇帝が、占い師に命じて占わせた占いの結果を亀の甲や獣骨に刻み込ませた、いわゆる亀卜のト辞だったのじゃ。

亀卜(きぼく)とは、牛や馬の肩甲骨や亀の腹部の甲羅を主として用い、表面に占おうとする事項を刻み込み、占い師が焼いた木などをこれに当てると、そのみぞを中心として表面に割れ目が生じ、この割れ目には、されに分岐ができて、「卜」字型、「入」字型、「十」字型などいろいろな形となるのじゃ。この分岐が右にでるか左に出るか、出ないかなどで占うものじゃよ。



☆陰陽道

陰陽五行の思想がベースじゃよ。
式神を自在に操り、国家の行方までをも支配した陰陽師・安部清明のイメージが非常に強いため、陰陽道といわれると、すぐに占い、祈祷を想像してしまいますがちじゃな。怪しい宗教なのかなあ。。。と思っている人も少なくないのかもしれんのう。

しかし、陰陽道は古代中国で生まれた素晴らしい学問なのじゃ。陰陽五行説の思想に基づいて、天文、暦、占いなどを見るものであるが、現在ではその思想的な部分と技術の全てをさして陰陽道と呼んでおる。日本に伝わったのは6世紀、その頃日本では陰陽道の学問体系自体があまり発達していなかったのじゃ。主に占術、呪術に用いられることが多かったじゃが、他の国では、自然科学の分野をはじめ、哲学や医学などの分野においても主要な理論として用いられていたのじゃよ。